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 わたしがするべきかたちと、もっとも違うかたちで、生理的欲求は満たされました。おしっこは終わり、おもらしという事実だけが、びっしょり濡れた下半身とともに、残りました。
 どく、どく、どく。心臓の音が聞こえました。わたしはまだ生きている。ということは紛れもなく、わたしはおもらしをした。
 紛れもなく?
 わたしは、何かを見てしまった。
 そうだ。
 わたしはたぶん、ぽかんと口を開けたほんとうにみっともない顔で、正面を向きました。
 それから、同じようにぽかんと口を開けて、立ちつくしている人影を、確かに、人だと認識しました。

「あ、その、え、ごめんなさい!」
 その人は女性でした。ボブカットの黒髪に、黒いスーツを着ていました。きっと、わたしよりも少し年上の印象です。
 彼女は眉間にしわを寄せて、今にも泣きそうな顔をしています。泣きたいのはわたしです!
「あ、あの! すぐに拭きますから!」
 それもわたしの台詞です。と、思いましたが、彼女はぱっと、いちばん奥の用具入れからモップを取り出し、お手洗いの中央に向かって流れ始めている、わたしの恥ずかしい粗相の跡をなぞり始めました。
 わたしはどちらかと言うと、背が高いほうです。彼女はわたしよりも、ずっと小柄に見えました。その彼女が、タイトスカートから伸びる、肌色のストッキングに包まれた細い足をきゅっと内またにして、まるで自分が粗相をしたみたいに、真っ赤になってモップを動かしています。
「あの、大丈夫です。自分でやりますから」
 ふるえて、かすれた声。けれど、静かにその声は、夜のお手洗いに響いた。
 スーツの彼女は、その声に気押されるように、モップを預けた。少女はモップを受け取ると、ゆっくり、床を拭き始める。
 水たまりはもうほとんどなくなっていたけれど、敷きつめられた水色の小さいタイルの目地には、まだにごった液体の跡が光っていた。
「もう一度、水ぶきしておきますね」
 下を向いたまま、少女がつぶやく。それから、やはり下を向いたまま、奥の用具入れの流しで、モップを洗う。じゃああ、勢いのよく水がはねる。
 もうすっかり、下着は冷たくなっていて、下着だけじゃない、靴下も、靴のなかも冷たくて、おもらしって、こんな感じだったっけ。おもらし、どうしよう、モップを洗う手は止めなかったけれど、少女は、声を殺して泣いた。
 それから、少女はまた水ぶきを始める。ぺたりと冷たい下着が、さっきまであんなに熱かった、足の付け根にへばりついている。今すぐにでも指で引きはがしたい気持ちをなんとか我慢して、立ちつくすスーツの女性の傍らをすり抜けごしごし、床を往復する。
 これでいいかな、もう一度、モップを水洗い。
 ええと、これからやらなければならないことは、まず、職員室に鍵を返す事。
 もう20時半はまわっているでしょう。先生にご注意を受けてしまうかもしれない。それ以前に、わたしは職員室に入れるのでしょうか。紺の靴下には、くっきりと濡れた跡が残っています。脱ぐ? この際、素足で靴を履くことはいたし方ありません。怪しまれない? いや、濡れた靴下を履いているよりは、ましでしょうか。
 そうだ、におい。スカートは濡れていない。でも、やっぱりおしっこのにおいはするでしょう。それから、帰り道。電車で3駅。歩く? まず、下着を脱がないと。まさかの、のーぱんです。
 少女はモップを置き、ゆっくりとお手洗いの中央を向いた。
「あの、これ、使って下さい!」
 まだ真っ赤な顔をしている彼女が、鞄からタオルを取りだした。白地にピンクの、なにかマスコットのような柄。
 え。
「脚とか、拭いてください。あの、ほんとに、構わないので。」
はい。
「あの、それから、わたしの家に来ませんか? すぐそばなんです。その着替えとか、シャワーとか」
は?



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