−4−
「すません、スミノフと、えぇと、ビール」
「はい、1200円になります」
 目のまわりに蜘蛛の巣みたいなメイクをしたお姉さんが、テレビのCMでしか見たことがないビールーサーバー、から紙コップにビールを注ぐ。
 僕はトレンチを受け取り、また人ごみを避けながら、彼女のもとに向かう。
「ありがと、お金、後ででいい?」
「うす」
 先輩の席とは、ちょうど60度くらいの角度で置かれた向かいの席に座る。
「ハッピー・ハロウィン」
 僕は、すでに柔らかくなっている紙コップの持ち上げた。
「ハッピーハロウィン」
 彼女はちょっと笑って、瓶を上げた。
 それからしばらくして、一度照明が落ちて、きゃあ、だか、おお、だか歓声が上がって、舞台に背の高い司会の男性が、スポットライトともに現れて、また歓声が上がって、挨拶があって。

 先輩のお目当てのバンドは4番目の登場らしい。僕は2杯めのビールを空けて、もうすぐ3バンド目。
「先輩、前行かなくていいんすか?」
「うーん、一緒に行く?」
「もちろん」
「じゃあ、行こう」
 先輩が少し前かがみになる。
「あ、その前に俺、便所行ってきますね」
「だめ」
 僕は立ち上がりかけて、一瞬、聞き間違いかと思った。
 だめ?

「ねぇ、おもらし見せてよ」

 まだ中腰のままでいる僕の耳元で、ゆらり、立ち上がった先輩が、そっと、囁いた。照明が、彼女の白い顔をさらに白く浮かび上がらせていて、わずかに歪む薄い唇はとても、いやらしいと思った。
 僕は、いいえ、と言えなかった。
 先輩は静かに、僕にからだをあずけるみたいに隣に立つ。僕は先輩の手を、手探りで握る。3バンド目の演奏が終わり、照明が替わる。舞台から引きあがる流れ、舞台に向かう流れ。僕たちは手をつないだまま、後者の流れに乗る。
 ビール二杯分の尿意が、ゆるゆるとおなかの下で揺れる。アルコールを摂取していることを考えても、あと1時間は我慢できるだろう。1時間後、僕は一体どういう状況で、先輩と居るんだろう。まだこの会場にいるだろうか。それとも外へ出ているだろうか。そんなことを考えた。
 舞台前は満員電車のような人だかりで、他の人よりあたまひとつ分小さい先輩は、すっかり人に埋もれている。それでも細められた先輩の目は、楽しんでいるように見えた。
 暗転、爆音、歓声。黒ずくめの5人。拳を顔の前あたりに振りあげ、おおお、先輩が声を上げる。
 はじめて見る、先輩の顔。はじめて聞く、先輩の声。楽しそうだった。
 僕もなんとなく、リズムに合わせてからだを揺らす。当然、尿意が強まる。もしかしたら、思ったより限界は早いかもしれない。
 3曲目に入るころには、下腹部の訴えはもうはっきりとそれと分かるものになっていて、ぴりぴり、腹痛にも似た刺激を発している。
 曲に合わせて、前後左右から、人の波がやってくる。波にもまれて、断続的に尿意が高まる。指先がやけに冷たい。重心を左右に傾け、少しでも楽な体勢を探すけれど、止むことのない人の動きが、つながれたままの先輩の左手が、許してはくれない。
 ここでおもらししたら、どうなる。これだけの大きな音と熱気。たぶん気付かれることはないだろう。さっきお酒を取りに行ったとき、床が濡れているところがあった。きっと飲み物をこぼしたんだろう。フロアの床に水たまりがあっても、それほど不自然ではない、と勝手に思う。
 けれど、僕とからだの触れる見知らぬ誰かの服は、確実に汚してしまうだろう。ひょっとしたら、腕だとか、むき出しの素肌が触れるかもしれない。おしっこで濡れた僕に。



←前 次→