−5−
 僕はちからを入れなおす。脚の付け根、胴体の一番低いところ、一番ちからの集められているところが、鈍く、痛い。5曲目はスローなバラード調の曲だ。人の動きも静かになる。
 先輩はときおり、僕の手をそっと握る。僕は、舞台だけを見つめていた。
 膨れ上がった膀胱が、おなかから突き出しているような感覚。曲のリズムとはまったく無関係に、大腿のあたりがくねくね、ふるえる。ボーカルは、斜め上の方を見つめながら、高い声で歌う。ベース音が、みぞおちのあたりでうねる。
 曲が終わる。照明が明るくなる。MC。ボーカルがしゃべって、そのたびにまわりで笑いだとか歓声だとかが起きる。話の内容はもう耳には入らなかったけど、ざわめきの中に先輩の声も混じっていることは、分かった。
 再び照明が替わり、激しいイントロ。おおお、ひときわ大きな歓声が飛ぶ。きっと有名な曲なのだろう。再び、周囲から人の波がやってくる。おなかのあたりにぶつかる。溢れそうになる。きっと、あと2,3曲だろう。指先がふるえているのが分かる。先輩に、伝わっているだろうか。
 からだを動かしていたほうが楽だ。僕は足踏みをしながら、全身を揺らす。もう、からだの下にちからを集め続けていなければ、抑えることができない。なんとか、このステージが終わるまでは。
 じくじくと、筋肉がきしんで、痛い。中学1年生のあの日以来、おもらしをしたことはない。あのときも、こんなに痛かったろうか。憧れの女性の前での失禁。あり得ない失態。それを回避するために、全力を尽くしたはずだったけれど、意外とあっけなく、おもらしをしてしまったような気もして、記憶の深くにあんなにくっきりと刻みこまれているのに、あの時の自分はどんな経緯をたどって失禁をしたのか、思い出そうとしても、思い出せない。
 ひょっとしたら僕は、先輩におもらしを見てほしかったのか。見られて、どうしたかったのか。やがて、僕がおもらしをして、先輩はどんな目で僕を見るんだろう。先輩は、僕の何が見たいんだろう。バスドラムの絶え間ない振動が、耳と、からだと、下腹部をかけぬけていく。7曲目だ、たぶん。
 いっそう速度を上げるビート。歪んだギターの唸り。いつ将棋倒しになってもおかしくなさそうな、人のうねり。青年の集中はお構いなしに、音と人の熱気に飲み込まれていく。
 いつ、溢れだしてもおかしくない。人波にもまれるたび、起こりうる最悪の事態をすこしでも先延ばしにするため、ちからを緩めることは許されない。下着のお尻側、じっとりと冷たい汗がにじんで、布地が肌に張り付く。同じくらい冷たい指先は感覚を忘れていて、けれど、その指先に触れる細い白い先輩の感触は、無くしてはいなかった。
 照明が、このステージでいちばん、まぶしいと思った。ボーカルが飛びはね、着地して、ステージが終わる。照明が消える。歓声が止まない。いや、歓声なのか耳鳴りなのか、判断ができない。
 ふたりがここまで来た時と同じように、舞台から遠ざかる流れと、反対の流れが入り混じる。
 やっぱり先輩は、人の波に沈んでいる。僕は、先輩の手をいまいちど握ると、舞台から引く流れに、乗った。

じゅ、じゅ、しゅう、

 歩き出す青年の足の付け根、汗ではない熱が、静かに、ひろがり始めた。
 舞台から離れると、いささか人口密度が下がり、僕はようやく、先輩を見ることができた。
 先輩は、顎を上げて、僕を見上げていた。切れ長で弓なりの目が、さらに細くなって、笑っている、僕を見て。
 ぼくはよろよろ、フロアの一番はじの柵へもたれかかった。一段高くなった背後、ステージが始まるまで僕らが居た場所は、思ったより高いことが分かった。また照明が暗くなって、次の演目のはじまりを告げる。



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