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「あ、ありがとうございます。でも、飲むとまた、おトイレ、行きたくなっちゃいますから」
少女は体勢を直しながら、小さな声で言う。
「もぉ、トイレなんていつだって行けばいいじゃない! 漏らすよりましでしょー!?」
食事と一緒に乗せられた、木のスプーンのうちのひとつを手にしながら、レツィタティファは目を吊り上げた。そして、
「今スープ温めるから! 飲むの!」
スプーンを持っているのと反対の手をスープのうえにかざすと、ぽこ、ぽこ、くたくたに煮込まれたキャベツと薄い黄色のじゃがいもとが浮かび上がり、それからすうっと、湯気がのぼる。少女の眼鏡がくもる。
「どうぞ、召し上がれ!」
もともとつり目の目じりを、さらに吊り上げたまま、言う。
窓から、白いカーテン越しに、昼の陽がそそぎ、ぼんやり、部屋を照らしている。ひとつの椅子にふたりの少女が座り、音もなく、スープを口に運ぶ。
「ありがとうございます、ちぃちゃん」
ほとんど椅子から落ちそうになりながら、銀髪の少女は小声で、言った。
その声を背中で聞きながら、もう一人の少女は、小さく息を吸い、少し止めてから、吐きだした。
「そりゃ、好きでやってるんじゃないのは、わかるけどさー」
息を吐いてから、ぽそり、言う。
アリエが転入して2日目、彼女は、教室で粗相をした。
14歳にもなって、授業中におもらし。教室のなかは、大変な騒ぎになった。少女の体調を気にし、声をかける者もあった。けれど、3度、4度と粗相が繰り返されると、もはや彼女に話しかける者はいなくなり、かわりに、なまぬるくいやらしい沈黙が、教室を覆った。
寮の同じ部屋だから、はじめはそんな理由で、レツィタティファは後始末を買って出たのだが、今では粗相のたび、どうせザーレさんがやるでしょ? 無言の、そんな声が聞こえる。
「わたしはありぃの後始末係じゃない!」
口ではそう言うのだけれど、水たまりのうえで俯き震える彼女を見れば、やはり、からだが勝手に動いてしまう。どうしてわたしがこんなこと、自分に腹が立ったし、粗相を繰り返す少女にもやはり、腹が立つ。
「そりゃあ、ありぃは命の恩人だけどさ」
二人にとって、いや、全生徒に、学校にとっても、大変な事件が起こったのは、10日ほど前のこと。
その日の午後の授業は、学校のまわりをぐるりと囲む、それはそれは深い森で、薬草について学ぶというものだった。
若い、黒髪の先生が引率にあたった。暖かい日で、彼女はローブを羽織ってはいなかった。
学校から、いくつかの目印をたよりに汗ばむくらい歩いた、深い深い森の、そこだけぽっかりと空ののぞく場所。20人あまりの少女たちは、薬草を採取したり、手元の教科書と見比べたりし、時間を過ごした。
だが、予想だにせぬ出来事が起こる。
延々と続く木々の向こう、その暗がりから、聞いたこともないような低いうなり声が迫ったかと思うと、次の瞬間、少女たちは驚愕し言葉を失った。
茂みから、真っ黒い、まるで得体の知れない生き物が、飛び出した。
そいつはまたたく間に、最も近くにいた、眼鏡の少女にのしかかり、組み伏す。
狼!? 少女のうえに乗るそのからだは、ゆうに人の背丈よりも長い。尾まで入れれば、大人二人分はあろうか。
そいつは、目を真っ赤に血走らせ、少女の細い肩を前足で踏みつけている。少女の顔は、苦痛と、恐怖に歪む。もしも彼女のブラウスが、刃物でも裂くことが難しいというアダマン布で出来ていなければ、その爪の下からは鮮血が吹き出していただろう。
きゃあああああ! いっせいに悲鳴が上がる。黒髪の先生は、ぱっ、と2、3歩、その恐ろしい獣に近づくと、早く、こっちへ! 大きく手を振り、生徒たちを自らの背後に誘導した。何人かは支え合いながら、何人かは転がるように、駆けだす。
なおも低いうなり声を上げ、そいつは少女のうえから動こうとしない。狼、いや違う、その見るからに硬そうな体毛は、他のどの生き物とも異なる、金属のような鈍いひかりをあげ、なにより、四つの足の付け根と、額からは、爪や牙と同じ鋭く尖った、白い角が伸びている。
魔物!
突如、このモレタ島、キシン共和国に現れた、異形の怪物たち。初めは、僻地を行く旅人が出会い、いのちからがら逃げ帰った、そんな噂だけだったのが、やがて、街を行き来する商人たちが襲われて大けがをしたとか、ある村に数匹が押し寄せ、家々をなぎ倒し暴れまわったとか、そんな話が聞かれ、いまではどこの街も、見張りの騎士や魔道士が昼夜を問わず立ち、そいつらの襲撃に備えているという、魔物。
けれど、魔法学校のまわりには、結界がはられているから魔物は入ってくることはできない、誰かがそんなことを言って、生徒たちは、ときおり森の外からもたらされる恐ろしい話を、どこか他人事のように聞き、学校生活を送っていた。
しかし、いま目の前にいるのは、そしてまさに、友人の一人に襲いかかっているのは、そうだ、魔物だ。
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