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先生は、両脚をぐっと踏みしめ、片手を化け物に向けた。魔法学校の教員であるのだから、基本的な攻撃魔法はもちろん使える。炎で焼き払うか、氷の矢で射ぬくか、それとも必殺の雷で狙い撃つか。だが、この距離で攻撃を放てば、あの巨体の下で身もだえている生徒はどうなる、彼女を傷つけずに、魔物だけを倒せるか? 掌は宙にかかげられたまま、しかし、次の手が打てなかった、その、一瞬の躊躇の間、
ぐぅあああああっ!
品のない咆哮とともに、獣の牙が、唾液を飛び散らせながら、少女の首筋へと迫った。
生徒たちの誰もが、目を覆った。
べきぃっ!
太い木の枝がへし折られるような、鈍い音、それから少しして、どすぅん、何か重いものが叩きつけられるような、大きな音。やがて、静寂。
少女たちは、おそるおそる、目を開ける。すると、どうだ。
あの、黒い恐ろしい怪物のすがたはなく、かわりに、銀色の髪の少女が、まだ倒れたままの友人の傍らに、座り込んでいた。
「ありぃ?」
気付けば、自身を覗き込むその見慣れた顔に、何が起こったのか分からないけれど、思わず、名を呼ぶ。
「ちぃちゃん、良かったです」
にこ、目じりの下がったその瞳を細めて、少女はほほ笑む。そして、とさっ、糸の切れた操り人形のように、力なく、倒れた。柔らかい草が、彼女を受け止める。少し遅れて、彼女のスカートのすそから、透明な水流が、草葉のうえに注がれた。
先生が駆けよる。膝をつき、肩をゆする。オーデルさん、大丈夫? 気を失っているだけ? ザーレさんは? 立てる? すぐにふたりを医務室へ! 皆さん! 手を貸して!
振り返り声をあげる。しかし、こちらに来ようとするものがいない。生徒たちの様子がおかしいことに、すぐに、気づいた。
あるものはスカートの前を抑え、かたかたと腰を揺らしている。あるものはその場でしゃがみ込み、ぎゅうっと目をつぶったままスカートの中に手を入れている。何人かは木陰に駆け込み、やはり大急ぎで腰を下ろす。それが出来なかった何人かの、スカートのすそ、両脚のあいだからは、透明のしずくがすでにあふれだし、ぱたたたた、草木に跳ね音を立てている。
一瞬、その光景と、あちこちから聞こえる水音に、先生は自分を疑った。しかし、すぐに、自身のからだの異変にも気づく。いや、気づかざるを得なかった。
それは、いままで感じたこともない、突然の、猛烈な、尿意。
先生は、くうッ、おもわず声を上げ、片膝をついたまま、なんとかこの衝動から逃れられる体勢を探した。しかし、それもつかの間、破裂のように圧力は高まり、まだ成長途中の少女たちならまだしも、大人の自分が、まさか。
まさか、とは思ったけれど、しゅわ、しゅうううう、ふわりとひろがった膝下丈の、薄緑のスカートの、ちょうどしゃがみ込んでかかとのあてがわれたところから、熱い熱い流れが、溢れだし、地面に流れる。
うそ、おもらし? わたしが? 軽いパニックになりながら、しかし瞬時に魔法をかけ、蒸発させる。しょわわわわ、しゅ、しゅうううう、う。ようやく下腹部が軽くなったのを確認し、ゆっくりと立ち上がるころにはすでに服には染みひとつなく、彼女は、教師としての、同時に、大人としての体面が保たれたことに、少しだけ、安堵した。
その日からである。
アリエ・オーデルがそばに寄ると、突然おしっこがしたくなる。
噂は、魔物出現の報よりも早く、学校を駆け回った。
誰、オーデルさんって?
ほら、あの銀髪の、後ろで二つ結びにした。
廊下では、見ず知らずの生徒でさえ、彼女の姿を見とめるや、大きく道を開けた。教室では、誰も彼女のとなりに、いや、前後の机にすら座らず、しかしそれにもかかわらず、ほとんどひっきりなしに、トイレ行きの許可を求めるようになった。
これでは授業にならない。あっという間に広まった噂に初めは半信半疑であった教師たちも、その様子を見、また、かの現場に居合わせた若い彼女が、羞恥を押して自らの身に起こった出来事を告白したこともあり、翌々日にはアリエは教員室に呼ばれ、彼女のために用意された机で授業を受けることに同意せざるを得なかった。
「ありぃだって、好きでこんなことしてるわけじゃない」
レツィタティファは、まだ残る肩の痛みと、静かにスープを口に運ぶ傍らの少女の温もりを感じながら、思った。でも。
あの日から数日した、ある夜。
ベッドで身を丸め眠る少女は、恐ろしい夢を見ている。
真っ黒い、数えきれないほどの影が、自分のまわりを取り囲んでいる。あるものは人のようであり、あるものは異形の巨大な怪物のようである。それらは皆、一様に赤い目をぎらぎらと光らせ、少女に迫り、逃れる場所はない。
少女は怖くて、怖くて、声を上げようとする。しかし、声は出ない。
やがて、気づくと、自分の手が、足が、あれら恐ろしい影と同じ、真っ黒の、異形のすがたに変わり始めている。わたしは、いったい何? あなたたちは何? わたしは? わたしは?
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