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ぴこぽこぴこん。
ひゃあ、一瞬、変な声とともに、息が止まった気がしました。
すっかりおトイレに行ける気になっていたわたしは、慌てて頭のなかの、白い想像を打ち消します。
「あっ、吉田さん!」
扉を開け立っていたのは、吉田さん、ご近所の、初老の男性で、常連さん。
「こんにちは」
彼は眼鏡の下の目を細めて、首をすこしかしげる。
「あっ、邪魔ですよね、すぐにどかします!」
そうだ、さっきの荷物、置きっぱなしだ!
倉井はととととっ、小走りで駆けよると、お客さんの前、腰を落とし、箱に両手をかける。それから、ぎゅうう、下腹部の一点にまずちからを集め、えいや! 持ち上げた。
どこに置こう、ふらふら見まわして、それから、どん、とりあえずカウンターの上、押しのけるように、置く。
そこからは、条件反射みたい、気づいたら、椅子に座っていた。
「星くんは、いますか?」
彼女が定位置についたのを見て、男性は、少ししわがれた、穏やかな声で話しかけた。
「店長は今出かけていまして、戻りはちょっと、いつになるか」
「そうですか」
彼はくるりと、店内を見まわす。品良く短くそろえられた白髪、聞けば、名のある大学の教授さんだったそう。
店に来ては、星さんと本の話をしていた。あれは入ってきましたか、とか、あれの初版本はありましたか、とか。
星さんも、吉田さんも夢中になって話す、と言う感じではなかったけれど、いくつか言葉を交わしながら、吉田さんはずいぶん長い時間、お店にいる気がする。
き、きりり、きりり。まずい、さっき、すっかりおトイレに行ける気になっていたせいか、主張はかなり、はげしい。
吉田さんとは知らない仲ではない。常連さんだ、ひとことお断りをして、おトイレ、行かせてもらおう。きっと、悪い顔はしないはずだ。でも、お客さんの前で、男の人の前で、おトイレなんて。なんて、もう恥ずかしがる歳でもないでしょ? ひとこと、すいません、って、ほら、それだけ!
「お店、閉められるそうですね」
カウンターに片ひじを置いて、話し始めたのは彼のほうだった。
「ご存じだったんですね」
言いたかった言葉とは違う言葉が、口をついた。
「少し前に、星くんから聞きましたよ。さびしくなりますね」
吉田さん、眼鏡の下、いつも笑っているような、細い目が、さらに細くなった気がした。
「このお店には、わたしがあなたぐらいの頃から、星くんのお祖父さんの代からお世話になっていましてね」
そうだったんですか。
「よく、本をおまけしてもらったり、あるいは、二束三文の本をずいぶんな値段で買ってもらったり、良くしてもらいましてね。思い出がたくさんあります」
思い出。そうだ、わたしにも思い出がいっぱいある。
気取って、洋書の翻訳本なんてを買って、ろくに読まずに本棚の飾りになって、それでも満ち足りた、高校生のころ。
好きな小説家ができて、その人の著作をみんな集めたくなって、でも古い本は売っていなくて、もしや、と思って、はじめてこの本屋さんに入った中学生のころ。
もっと小さいとき、漫画も雑誌も置いていないし、なんだか怖そうな感じがして、通り過ぎるだけだったころ。
思い出、そうだ、ここはわたしの、大切な。
「さびしくなります。あなたの顔を見るのも、星くんとのおしゃべりも、楽しみだったんですけどねぇ」
わたし? どこか冗談めかして、吉田さんは頬をゆるませた。
きゅ、きゅうう、きゅううう、膨れ上がった内臓から、なかみがあちこちに穴を開け、飛び出してきそうだと思った。
カウンターの内側、両の膝をきゅうと合わせて、両手はその上で握られたまま。そこから立ちのぼる、汗とは違う、熱っぽいにおいが、顔まで届く気がする。
安田さんはまた、店内を見まわす。
きし、きし、椅子がきしむ。からだが、不自然に動いている。吉田さん、いつもみたいに、長居されるでしょうか。もしかして、そしたら、もしかして、わたし、
おもらし
その言葉が、頭のなかで点滅した。
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