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 夕食は野鳥のロースト、つけ合わせは焼いたじゃがいも。それから、たまねぎのスープに、パン。どれもおいしかったけれど、少女たちが目を輝かせたのは、森で採れたいくつもの果実を使ったという、特製のジャム。レツィタティファは材料をいくつか挙げてみたけれど、正解には至らず。隠し味はひみつ、と笑顔で返された。
 お腹がいっぱいになって、まる半日歩き疲れたせいもあって、ベッドにもぐると、少女たちはすぐに眠りに落ちた。
 落ちたと思った。けれど少女のまぶたの裏に、消えない戦慄。
 暗い森、恐ろしい怪物、わたしの上にのしかかっている、もうだめ、絶望、そのとき、赤い閃光が走り、怪物は打ち倒される。見れば、大好きな親友。けれどその姿は、真っ赤に目を血走らせた、黒い恐ろしい、まるで、怪物。吐き出すように叫ぶ。だめだよ、ありぃ、そっちに行っちゃだめ!
 叫んで、は、は、は。まだ、息が苦しい。部屋が明るい。もう朝だ。ぜんぜん疲れがとれていないような、体の重さ。できれば、あと半日くらい、寝ていたい。
 って。
 寝てる場合じゃない!
 少女の心臓を飛び跳ねさせる、感触。
 すっかり冷たくなった、かけ布団のなか。
 やっちゃったぁ!
 夕食時の水分は控えた。寝る前にもトイレに行った。大丈夫だと思った。
 なのに、ルネ様に注意を促したのに、よりによって、わたしが、
 おねしょしちゃったよぉ!
 とっさに、シーツの上をまさぐる。おしりの下に敷いた座布団はびっしょり。それどころか、座布団の外、シーツまで冷たさがひろがっている。うそ、うそ、どうしよう!
 枕もと、人の気配がする。体がかちぃん、かたくなる。
「よく眠れたかい? アリエ」
「はい、何も覚えていないくらいぐっすりでした。でもまだ、足が痛いですぅ」
「若いから、大丈夫だよ」
 2人とも、起きてるの!? 親友の声のトーンが明るい。もし、やっちゃってたとしたら、もっと恥ずかしがっているはずだ。ってことは、わたしだけぇ!?
「ちぃ、まだ起きませんね。やっぱり疲れてるのかな」
 わわわ、わたしに話しふらないで! 心臓が破裂しそう。
「そうかもね。そうだ、わたしはちょっと散歩に行ってくるから、アリエ、起こしてあげてくれるかい?」
「あ、はい! 分かりました」
 きぃ、かちゃん。扉のしまる音。
「ちぃ、朝ですよ! パンの焼けるいいにおいがしますぅ」
 においとか、くんくんしないで! まだ目が開けられない。
 不意に、耳もとに熱。それから、ささやき声。
「ちぃ、先生はいません。起きて大丈夫ですよ」
 え、それって、ありぃ、気づいてる?
「ありぃ」
 そうっと、目を開く。もう髪を結んで、制服に着替えた彼女の顔が、すぐそば。きゅううっ、涙が出そうだ。
「おねしょしちゃった」
「大丈夫です。ちぃの魔法なら、すぐに乾かせます」
「無理だよ。すごい、濡れてるもん」
 わたし、泣いてる。なんでわたしだけ、しちゃったの。
「ちぃなら、大丈夫です! 起きましょう、風邪、ひいちゃいますよ」
 もぉ、なんでありぃ、こんなに優しいのよぉ。ぐすっ。
 かけ布団をきゅう、握ったまま、ゆっくり体を起こす。すっかり冷えたパジャマ。うう、おしっこのにおい。
「大丈夫ですか? 立てますか?」
 親友の手が背中に添えられる。あったかい。でも、冷たい。触らないで、ありぃ。
「まず着替えて、それからベッド、乾かしてみましょう」
「ん、先に、乾かす」
 くちびるがまだ、震えている。
 ベッドの傍らに立つ。大きな大きな、グレーの染み。こんなにしちゃったの、始めてかも。また、胸が苦しい。
 ベッドの上に両手をかざす。パジャマがぺたり、肌に張り付く。まずは、水の魔法。ふううっ、ベッドの染みが一度、おおきく広がる、ぽこぽこぽこっ、流れが這うように、シーツの上を走る。よし、水洗いおーけー。それから、火の魔法、慎重に、焦がさないように。ぽっぽっぽっぽっ、小さな炎が、シーツの上で揺れる。見る間に染みが消えていく。
「ちぃ、ばっちりですぅ!」
 は、は、は、こんなに緊張して魔法つかうの、始めてかも。
「ふわふわ、においもしません!」
 アリエはぱふん、体を折り、シーツに頬ずり。やめてぇぇぇ!
「わたし、シャワー浴びてくる」
「そうして下さい!」
 眼鏡と制服、下着とタオルを取る。あれ、ありぃは?
「ちぃ、大丈夫です、シャワー室までだれもいません」
 いつの間にか廊下に出ていた彼女が、手招き。はは、お気遣いありがとうございます。
 温かいシャワーの湯気に包まれて、ああぁ、朝から疲れたぁ。レツィタティファは大きなため息をついた。直後、まぶたの裏に再びよぎる、黒い影。
 ありぃ、まさか、ね?
 制服をまとい、髪を結んで、部屋に戻ると、ルネ先生がいた。
 ルネ様、もしかして、わたしのおねしょに気づいていて? って! それめっちゃ恥ずかしいんですけど!
「すみません、お待たせしました」
 とにかく、頭を下げた。
「いや、お疲れ様。本番は今日だよ、降りて、朝食にしよう」
「はい!」
 焼きたてのパンと、チーズと、コーヒー、紅茶。パンの種類はいくつかあって、昨日とすべて違う。ほんと、おいしい。
 それから少しおしゃべりをしていると、お迎えが来たと言う。
 荷物をまとめ山小屋を出ると、少女たちはぎょっとして、思わずその足をすくませた。背の高い、アリエたちより頭二つ分ほど高いルネよりも、さらに高い、まるでまっ黒な影が立っていた。頭からすっぽりとかぶられた黒いローブは、まるで水面、光沢を放ちさざめいていて、それがなんでできているのか見当もつかなかったが、なにより、フードからわずかにのぞくのは、まっ白な、笑っているとも、泣いているとも判断のつかない、仮面。
「北部商工連合よりお迎えに伺いました。ご支度がよろしければ、ご案内をいたします」
 たじろぐ少女らを察してか、影のほうから口を聞いた。いく人もの人間が同時に同じことを話しているような、奇妙な残響を引く声。男性のようだが、それすら定かでない。アリエは、怖いと思った。
 意を決して、いやつとめて冷静を装い、応じたのはレツィタティファ。
「よろしくお願いいたします。ご依頼を受けました、イリーバ魔法学校、レツィタティファ・ザーレ、アリエ・オーデル、それに」
「ルネ・ラーンです。まだ勉強中の身ゆえ、ご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが、どうぞ、よろしくお願いいたします」
 眼鏡の少女の紹介を遮るように名乗られた名に、その後に続いた言葉に、銀髪の少女の目は丸くなった。え? ルネ先生?
「わたしも学生と言うことにしておいた方が、都合がよさそうだ」
 ふたりの耳元で、囁いた。
「確かに、確認いたしました。ではこれより、転送魔法により、あなた方をご案内します。どうぞ、魔法陣へ」
 その背の高い傍らには、すでに人が数人乗れる大きさの、白い正方形の布が広げられていて、そこに描かれた円形の幾何学模様と魔法文字が、淡い光を放っていた。
「行こう」
 レツィタティファ、ルネが円に乗る。アリエ、え、あ、どうしましょう。
「ここに乗るだけで大丈夫だよ、さ、ありぃも」
 親友の差し出された手を握り、おっかなびっくり、輪に入る。
「では、転送を開始します」
 最後に黒いローブが滑るように魔法陣に乗り、描かれた文字のいくつかを、空中でなぞる。
 しゅいいいいんっ!
 直後、めまいにも似た感覚。一瞬、景色の知覚ができなくなる。が、しかし、その一瞬ののち、気づけば、見たこともない光景。アリエは、息をのんだ。



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