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緑の枝が目に飛び込む。それからブロック塀。よし、着いた! スパートだ。駆け足になる。たっ、たっ、たっ、たっ、足音が響き、ブロック塀が後ろへと流れる。すいません! トイレ、貸してください!
って。
のどの手前まで準備していたのに。
え。
塀の途切れた灰色の門には、立っている姿はなかった。
あの、おばさん!? 鉄のがらがらは開いている。一歩、足を踏み入れて、あたりを見回す。姿はない。
もしかして、裏手? トイレを借りたかったからか、おばさんの身に何かあったんじゃないかって心配になったからか、もう、分からなかったけれど、とっ、とっ、家の周りを右、左、覗いてみて、やはり、いない。
どうしよう、学校を目指すか。あと15分。ここまで耐えたのだから、あと15分くらい。ぎゅううっ、ちからをゆるめることはできない。痛い。でもゆるめたら、きっともう、我慢できない。あと15分、耐えなきゃ。そう思って、振り向こうとして、でもそんな時に限って、あの、年季の入ったトイレが、入学以来、もう何度もお世話になったトイレが、よぎって、やっぱりここで、お借りしたほうが。おばさん、お家のなかなのかな。とんとんしたら、出てきてくれるかな。そうだ、呼び鈴押したら?
待って、もし押して、誰か別の人が出てきたら? ああもう! そしたらその時考えよう! だってもう、おしっこ出ちゃいそうなの!
玄関の前できょろきょろ、おかしい、呼び鈴がない。本当は叩きたい気持ちをぎゅうう、押さえて、たんたん、扉を叩いてみた。たんたん、たんたん、返事がない。いないのかな、どうしよう、おしっこ出ちゃうよ!
かくかくと、膝がふるえるのが分かった。奥歯を噛みしめたまま、せめて、痛みを、限界を紛らわせるためか、小刻みな足踏みと、上半身を縦揺れが、繰り返される。もうムリ、がっ、扉に手がかかる。お願い、開いて! でも、がっ。わずかに動くけれど、開かない、鍵がかかっている。
ちょっと考えれば、おかしなことしてたんだって。見ず知らずの人のうちでトイレを借りる、それも、毎日のように、なんて。ぜったいおかしい。おかしかった。おかしかったのに、わたし、慣れちゃって、あてにして、それで、ああっ!
しょろろろ、しょろっ、
玄関扉に手をかけたまま、反対の手がとっさに、動いて、熱のひろがったそこを抑えつけた。片手は扉、もう片方は熱の出口に、もう両方のひざはぴったりとくっつき、反った背中と突き出されたおしりがつくる、恥ずかしいくの字。
しょろっ、しゅわ、しゅううう、
押さえつける指が、熱を感じた。
限界だ。
せめて、誰かに見られないところへ。
しゅう、しゅいい、しゅわぁ、
熱いしずくが太ももを駆け出し、少女は転げるように、扉の前を離れ、家の影へと身を隠す。
しゅおおおっ、ぱしゃっ、ぴちゃ、しゅううううぅ、
しずくは流れになり、太ももから足首へと駆け抜け、もう、止まらない。止められない。木立のあいだ。たぶん、道路からは見えない、そこで、中腰のまま、両手はパンツの膝のあたりをちぎれそうなくらいつかんで、上半身を大きく曲げて、あごの下で切りそろえられた茶色のストレート・ヘアが、ばさあっ、横顔を、吐息を、覆った。
ちゃっ、しゅうう、くしゅっ、しゅう、しゅ、っ。
熱いあつい、からだのなかみが溶けて流れ出てしまったような、一瞬の熱。からっぽになったからだは、みるみるうちに冷えて、おしりに、太ももに、足のうらに、張りついて。足もと、こげ茶色の土のうえ、泥水みたいに、にごって光る、わたしのからだだったもの。それから、おそるおそる鮮明になる視界がとらえる下半身、コーラルピンクのワイドパンツ、また下、太ももの内側、ふくらはぎ、足首の上まで、にごったグレーに、色を変えて。
おしっこ、我慢できなかった。
出ちゃった、でちゃったよぉ。
よろよろ、あたりを見回す。誰もいない、人の気配は感じない。誰に見られてない。わたしの、おもらし。
でも、これから、どうするの。ずっとここに隠れているわけにはいかない。だからって、どこにも行けない。このかっこう見られたら、おもらししたって、一目瞭然。濡れたパンツのままどこかに行くなんて、できない、できっこない。じゃあ、どうするの、どうすればいいの!
そのまま、立ちつくして、どのくらいの時間が経ったのだろう。布地が冷たくて、かたくて、へばりついて。さっきからずっと、おしっこのにおいがまとわりついて。塀を隔てたむこう、車の通る音が聞こえる。クラクションが聞こえる。学生のはなし声が、近づいて、遠ざかり、また近づく。もうすぐ、1限の始まる時間だろう。始業時間を過ぎれば、学生の波はひとまずおさまる。けれど、状況は変わらない、誰も通らないなんてことはあり得ないし、行けるところだってない。じゃあ、わたしは真夜中になるか、あるいは服が乾くまで、ここにいるしかないってこと。そんなの、できるわけない。絶望って、ほんとに、あるんだ。ふううっ、あたまに白いもやがかかった、そのとき。
ぶぅぅうん、バイクの音が近づいて、止まって。がちゃん、そんな音がして。
ほんとうにびっくりしたとき、言葉は出ないって、そのとき、知った。
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