−8−
「いったたたぁ!」
動ける。生きてる。あたりは真っ暗で、もうあちこちがずきずき痛い。でも、わたし、生きてる。そうだ、彼女は。
落下の衝撃で離れてしまったのか、生きているのか。
あ、は、うう、
うめき声が聞こえる。それほど遠くない。
「どこ? 生きてる? いたら返事をして!」
精いっぱいの叫び声。もう喉はがらがら、絞り出すように叫ぶ。
「はい、ここ、です」
力のない声。けれど、確かに聞こえる。良かった。生きてる。
やがて幾本かの木の隙間から、ぼろぼろの、あちこち焦げた給仕服が、迫りくる炎の赤に照らされ、見える。
レツィタティファは痛みの塊みたいな体を引きずり駆け寄る。煤ですっかり真っ黒になった顔。きっとわたしもそうだろう。
「大丈夫? 動かないところはない?」
少女は何度か、体を震わせ、大丈夫です、小さな声で言った。
やったよ、ありぃ、わたし、やったよ。
体が崩れるのと、熱い液体が噴水のように噴き出すのとは、同時だった。
しゃがみこんだおしりに、ふとももに、ふくらはぎに、押し寄せるように熱が伝わっていく。体の中の水分がみな、おしっこになって流れてしまったのではないかと思うほど。それでもまだ、止まらない。
わたしの隣で、しゃがみこんでいる彼女。もぉ、そんなに見ないでよ。わたしの、おもらし。
ようやく、水流の勢いが弱まり、しゅ、しゅいい、止まる。
少女は服が濡れるのもためらわず、いや、正確には、もはや座っていることさえできずに、ぱたん、仰向けに倒れ、目を閉じる。
草のにおい、煙のにおい、それに混じって、わたしのおしっこのにおい。冷たい頭の後ろのほうから、いろんなにおいがした。
あれ? あなたのスカートも?
傍らにしゃがみこむ、彼女の給仕服からも、おんなじにおい。
もしかして、おもらししちゃったから、服、燃えずにすんだのかな? なんて。
さ、少し休んだら行かなきゃ。ありぃがきっと戦ってる。応援に行かなきゃ。レツィタティファは目を閉じたまま、ずれたままだった眼鏡を右手で直した。
がぁん! どどどっ! ばしいっ! べきべきべきぃ、
少女の渾身の蹴り、掌底の連打、そして体当たり。目にもとまらぬ早業を受け、大人が二人、いや三人腕をまわしてもまだ届かぬほどの幹が、湿った軋みを上げながら、傾き、倒れる。
いま、何本目。いや、あと何本? 次の標的に狙いを定めるわずかの間にも、猛烈な尿意が暴れる。おもわず両の膝がくっつきそうになる。ふ、ふうっ、疲労ではない、けれど、息が乱れる。あと、何本倒せば?
空を焦がさんばかりの炎は、まるで天へ向かう洪水。あちらこちらに灼熱をほとばしらせ、いつ森に燃え広がってもおかしくはない。
屋敷のまわりをぐるりと囲む木々。すべて倒すことなど、できるだろうか。くううっ、おなかの下に、いまにも弾けそうな痛み。でも、やらなきゃ。ぜったいに、我慢しなきゃ。
少女はもどかしさを振り切るように、拳をつきだす。がぁん! 間髪いれず、蹴りあげ、両手での掌底打。幹をへし折れるのと同じだけの衝撃が、下腹部に押し寄せる。んんんっ、まだだめ! 唇を結び尿意を堪える。でも、全部倒すまでなんて、我慢、できないっ!
「アリエ君」
はっ、背後からの声に、思わず振り向く。ルねぇさん?
「君に、技を教える。よく見て、覚えるんだ」
ルねぇさん? 何を言っているんですか? もう一瞬の立ち止まりも許されないほどなのに。んんッ、思わず集中が途切れそうになって、だめっ、両脚を交差する。
けれど、背後から迫る劫火などそれこそ気にも留めぬ、冷たい貌のまま、ルネは続けた。
「ひじを曲げ右手を振り上げて、一気に振り下ろす。同時に体を開く。こうだ」
言い終わるとルネは、静かに右腕をあたまの上あたりまで上げ、振りおろした。正面を向いていたからだは、振り下ろすと同時に左を向いている。
「からだをひねるのでも、右足を前に出すのでもない。体を開く、やってみろ」
尿意の波は、ひっきりなしにおとずれる。もはや、足をそろえ背すじを伸ばすことさえ、苦痛に感じる。これじゃ、とてもすべての木を倒すまでなんて、我慢できない。
でも。ルねぇさんがなにかを伝えようとしている。今の動き、もしかして。
ふっ。小さく息を吐き、いま見たとおり右手を振り上げ、手刀をつくり、振り下ろす。
ずぁんっっ!!
振り下ろされた手の先から閃いたのは、疾風か。空を切る音は、爆破とまごうほどの轟音。
べきべきべきぃ、どおん、どおおおん!
見れば、その疾風が駆け抜けた先まっすぐ、まるで鉄砲水でも走り去った後のごとく、木々が、あの太い幹が薙ぎ倒されている。それも一本ではない。まさに一直線上に、数え切れぬほど。
「剣技『牙断(がだん)』だ。」
ルネの言葉は続く。
「腕の振りと手首の角度で威力が調節できるようになれば、さらに切断力に優れた『牙穿(ががつ)』となる。その技で、森を救え」
「はいっ!」
これなら、この技があれば! いける!
少女は顎を引き、眼差しを据えると、右腕を振り上げ、構えを取る。
てぇぇぇいっ!
少女の叫びが、疾風とともにこだました。
「本当に、一度見ただけで使えるようになるとはね」
その背後で、微笑みともつかぬ目を細めた表情で、ルネは言った。
「もしかしたら、並みの魔人より強いんじゃないかな?」
一発、二発、そこからはもはや、振り下ろすだけでない。下から上へと切り上げるように、さらには左腕を用いて、次々と技を繰り出す少女の赤い閃光が、青い瞳の先で瞬いた。
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