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「これ、ありぃが!?」
 起き上がりざま、とにかくスカートの染みを乾かして、ぱんつはまぁ、びしょびしょのままだけど、汗ってことで。森から這いだすように現れたレツィタティファの目に映る、まだ赤々と燃える屋敷。しかし、その周囲、黒く深く果てしなく続いていたように思われた森の端、それがどうだ。炎に照らされ見えるのは、根こそぎ刈り取られた若草の跡か、木々が折り重なり、倒れている。
 その光景に、少女の胸によぎる言葉。

『魔人』

 ひと跳びで千の兵の頭上を超え、ひと振りで万の石の城を断つ、いにしえより言われる魔人の力。モレタ島の人間に、ごく稀に生まれる、超常の力を持つもの。
 どぉぉん! すぐ背後で、疾風の駆け抜けるような音がした。振り返る。今まさに、渾身のひと振りを繰り出し、力つきようとする、親友の姿。
「ありぃ!」
 駆け寄り、抱きとめる。白い肌も、銀色の髪も、すっかり煤け、まっくろ。
「ちぃ?」
 すでにもうろうとした目。けれどその瞳に、きっと親友の笑顔がうつったろう。その口元に、わずかに笑みがこぼれた。
「すごいよありぃ! 頑張ったね!」
 力いっぱい抱きしめる。
「えへへ、ちぃに褒められたですぅ」
 額の赤い文様のひかりが、音もなく消える。がくぅ、抱きとめられた膝から力が抜ける。眼鏡の少女はそのからだを抱きとめたまま、まるで自身のからだに覆いかぶせるように静かに、倒れた。

しょわっ、じゅう、しゅわぁぁぁぁぁっ

 抱きとめた少女の腹部に、そのもう少ししたの方に、熱い、熱い流れが打ち付ける。
「よく我慢したね。いっぱい、していいよ」
 抱きしめたまま、きっとたったひとりにだけ聞こえるよう、少女は告げた。

しゅうう、しゅあああ、しゃあああああ、

 それは、互いのぬくもりを感じるみたいに。少女は心地よささえ覚えて、親友のからだから溢れ続ける熱を、受け止める。
 ありぃが魔人かどうかなんて、どうでもいい。いま自分の胸の上に倒れこんで、熱い雫を注いでいるこの子が、わたしは大好きなんだから。
 やがてその流れがおさまり、少女は少し名残惜しさを感じ、
「ごめんなさい、ちぃ、いっぱい、でちゃったですぅ」
 少女の泣き声とも吐息ともつかぬ声を聞き、もう一度、あたまを撫でる。
 この時間が、もう少し、続けば良かったけど。
 でも。
 まだ、やらなきゃいけないことがある。
 はい。
 二人の少女は、手をつないだまま、よろよろと立ちあがった。
 その視線の先には、空を焦がし、燃え続ける屋敷。
 行かなきゃ。はい。
 でも、どうする。
 そうだ!
「えっちゃぁぁぁん! 聞こえますかぁ!」
 かすれ、途切れ、それでも少女はあらん限りの声で、天に向け続けた。
「雨を降らせてくださぁい! お願いしまぁぁす!」
 ありぃ、何言ってるの! そんなこと、できるわけないじゃない!
 大丈夫ですぅ。きっとえっちゃんなら、なんとかしてくれますぅ。
 煤と灰で真っ黒になった頬、幾筋もつたう跡は汗か涙か、その頬をなお紅潮させ、少女は叫び続ける。焼け落ちる屋敷のぼうぼうと言う唸りにかき消されそうになりながら、それでもまだ。
 いつもなら、トイレに行きたいとさえ言えない子なのに。こんなときばかり、自分の身の危険も顧みず、ひたすら、ひたむきで。
 ありぃ、やっぱり、すごいよ。
 そんなありぃだから、わたしも、頑張りたいって、思えるんだ。
 きゅ、いちど、唇を結んで。それから、
「森の賢者様! どうか、お恵みを! 雨をお与えくださいませ!」
 隣の少女に負けない声を張り上げ、叫ぶ。
「えっちゃぁぁん! お願いしまぁぁす!」
 叶うかどうか分からない。けれど今、わたしたちにできることを。
 少女たちはかわるがわる、叫ぶことをやめない。すでにその声は、喉を過ぎる風の音、ひゅうひゅう、苦しげに、うわずり、むせこみ、けれど決して、口をつぐむことなく。この声が、届くまで、声が枯れ果てたって、やめるものか。
 ぽつ、ぽつ。
 天を仰ぐ少女らの頬に、待ち望んだそれが落ちたのは、どのくらいたった頃か。
 ぽつ、ぽつ、たっ、たたたっ、ざぁぁっ。

 見る間に、大粒の雨が、滝のような雨が、注いだ。
 アリエとレツィタティファは手を取り抱き合って、それこそ汗とおしっこでびしょぬれの全身を洗い流すみたい、かすれた歓声を上げながら、どしゃぶりの雨のなかを転げ回った。
 それは二人だけでなく、屋敷から必死で逃げだし、傷ついた同僚を救い、あるいは見知らぬ者同士が互いの傷をいたわり合っていた、屋敷のすべての者にとって、恵みの雨であったのだろう。どこからともなく上がった歓喜の声が、森にこだまするまで、さしたる時間はかからなかった。
「えっちゃぁぁん! ありがとうございますぅ! こんど一緒にくまさんグミ食べるですぅ!」
 アリエは地に背中をつけ、全身で雨を受け止めながら、叫んだ。
 今回は、特別ですよ。
 ガラスの音色のような女の子の声が、聞こえたか、気のせいか。

 雨が上がる。雲が切れ、いっぱいの日が射す。夜が明けた。わたしたち、生きてる。
 あの荘厳な屋敷は、そのそびえ立つ佇まいだけは残し、しかし、壁面は黒く焼け焦げ、もはや面影すらない。まだあちこちの窓から、細い煙が立ち上っている。
「ねえちゃんたち、すげえな。さすが、イリーバの生徒さんだ」
 気付けば、カンタート先生と同じくらい背の高い、男のひと。背も高いけれど、横にも大きい。肩幅が広いし、腕も太い。きっと白だったシャツもズボンも、真っ黒になって、あちらこちら、穴があいたり、血がにじんだり。
 アリエはちょっとびっくりして、思わず親友の背後に後ずさった。
「これだけの木、全部薙ぎ倒しちまうなんてよ、そんじょそこらの魔法使いじゃできねぇよ」
 彼は心底感心しているのか、どこか冷やかしなのか、アリエにはちょっと分からなかったけれど、
「いえいえ、お役にたてて、何よりです」
、レツィタティファは、眼鏡をくいと押し上げながら言った。
「ねえちゃんたちは命の恩人さ。もし森に燃え広がってたら、どのみち逃げ場はねぇ。焼け死ぬだけだ」
 それから、はぁ、とひとつ大きなため息をついて、焼けあとを見ながら、
「あんだけ、火薬の取扱いには気をつけろって、言ったんだがなぁ」
、もういちど、大きなため息。
「火薬、ですか? ここに火薬が?」
 眼鏡の少女が、男の顔を見上げながら尋ねる。
「ああ、そうよ。本当は、ぜったいに黙ってろと言われているんだが、こうなっちまったらもういいだろう」
 どこか冗談めいて、どこか、吐き捨てるように。
「この屋敷の右半分は、火薬と銃の工房になってる。俺は、いや、俺たちは、雇われの職人よ」



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