夢のはなし。
 初めて彼女の話を聞いたとき、それはおとぎ話ではないかと思った。そして初めて彼女に会ったとき、まさか彼女は夢の中から現れた妖精なのではないか、と思った。
 目の前で、ときにはにかみ、ときに頬を膨らませ、ときに伏せ目がちに表情を変えおしゃべりをする彼女の、一言一句、ひとつひとつのエピソード、そこに寄り添う彼女の心情、それらすべてが、どれほどわたしの胸をときめかせたか。
 彼女は、おしっこが我慢できない。おそらく、体質的なところが大きいのだろう。尿意を感じてから我慢できなくなるまでの時間が極端に短い。その間、長くても15分ほど。つまり、おしっこがしたい、と感じてから15分以内にトイレまでたどり着けなければ、彼女の身体は彼女の意思と関係なく排泄を始め、そこが教室であろうと車内であろうとベッドの中であろうと、彼女の服を濡らす。
 彼女は言った。10代に差し掛かるころには、自身がおしっこを我慢できないことに気づいていて、どうすればおもらしをしないか、よりも、どうすればおもらしの被害を最小限に食い止められるか、を考えていた、と。常に携帯する可愛らしいポーチには尿取りパッドを始め様々な対策グッズ、長時間の外出の際は紙おむつの着用、長いカーディガンと短いスカートなど濡れを隠せ目立たせないコーディネート。多感な思春期、きっと彼女は、ともすれば後ろ向きになりがちな気持ちを、持ち前の明るさと建設的な思考で奮い立たせてきたのではないか。そう、想像するときの、胸にこみあげる切ないほどの愛おしさ。
 彼女がいつしか思い描くようになった夢、それは、「自分と同じように悩み苦しむ誰かのちからになりたい」。彼女は、看護師になる道を選んだ。
 試験勉強のさなか、ついうたた寝をして椅子の下に水たまりをつくったり、おむつ交換の実習で必要以上にどきどきしたり、たくさんの苦労があったろうと思うが、彼女は見事資格を取得し、あるクリニックへと就職をする。それは、地域でも評判の夜尿症治療の専門医。
 彼女は勤務を通じ、さらに知識と技術を深めるとともに、もっと気軽に、悩みを打ちあけ話ができるよう、自主的に相談ボランティアを始めたそうだ。彼女の明るく、人懐こい人柄はきっと多くの、同じ悩みを抱えた方の、心を開くのではないだろうか。
 さて、ここからはいささか、妬み心を交えながら語らせてもらおう。精力的に活動する彼女を支え、励ます、素晴らしいパートナーについてだ。
 明るく前向きな彼女だったけれど、悩み多き年ごろには相応に気持ちの沈むこともあったと言う。そんな折に出会った、少し年の離れた、お兄ちゃん先生。母子家庭で一人っ子の彼女にとって、家庭教師として現れた彼は、まさに肉親のような存在に思えたのだろう。邪推をすれば、長年の思慕と少女期の興味とに突き動かされ、彼女は瞬く間に、彼に恋をした。
 彼の方も、始めは年の離れた妹分、くらいにしか思っていなかったようだが、いつしか明るくひたむきな彼女の魅力に惹かれ、恋心を抱き、交際にいたる。俺の彼女、おしっこが我慢できないんだ。彼からそう聞かされた(いや、聞き出した、が正確か)ときの、わたしの心境いかばかりか。
 渋滞の助手席で、ショッピングモールの物陰で、彼の家のソファで、二人で過ごす時間のとても多くが、レモン色のアクシデントに彩られている。迎える朝、甘えた声でおむつの交換をねだったかと思えば、冗談だよッ! どぎまぎしたままの彼を置いて、浴室に飛び込む彼女。心底、うらやましい。
 数年間の交際を経て、二人は結婚し、いまは幸せな家庭を築いている。あぁ、書いていてだんだん腹が立ってきた。彼女についてはこの辺りにしようと思う。だが、おしっこが我慢できない彼女、日常的におもらしやおねしょをし、おむつを着用している彼女の存在が、わたしに与えた衝撃は計り知れない。その意味で、彼女に、不本意だが、彼女を紹介してくれた彼、わたしの古くからの悪友、に、心から感謝するよりほかなく、また、末永い幸せを祈らずにはいられない。



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