雪のはなし。
 彼女とは一度だけ、お話をしたことがある。彼女は、どちらかと言えば、同好の士である。故意におもらしをすること、故意に自分をトイレに行けない状況に追いやること、故意におむつにおしっこをすること、それらに彼女は、特別な魅力を感じている。
 中学生のとき、彼女は二回の失禁を経験したそうだ。さらに二回目の失禁は、偶然、紙おむつを着用した状態であった。人前での失禁という、普通ならば耐えがたいような状況を、結果として受け止め、隠してくれた紙おむつ。おしっこの温かさが広がっていくのを感じたとき、彼女は言いしれぬ開放感と安心感を覚えたという。それ以来彼女は、こっそりと紙おむつを穿き、わざとおしっこを我慢し、そして誰にも気づかれず、失禁をすると言う行為を、繰り返した。
 自分は変態だ、こんなことはやってはいけないことだ、そう、苦しんだこともあったという。実際、「おもらし遊び」をやめようと思ったこともあったという。だが、彼女はその快楽から逃れることはできなかった、いや、逃れる必要なんてない、と受け入れたと言うべきか? むしろ高校時代は、密かに趣味を共有することができた数名の女子たちと、秘密の「おしがま部」を結成し、学校でおしっこ我慢を楽しんだというのだから相当な筋金入りであろう。
 おしっこやおもらしに特別な興味を持つ女性、というのは、わたしのような者からすれば、気持ちを分かち合える数少ない仲間、ひょっとしたら、決して多数派とは言えず、ことによると隅へと追いやられがちな不遇に、ともに抗う戦友、とさえ呼べるかもしれない。
 許されるのならば、もっとたくさんのことを語り合いたい。同好の士として、その理想や、思いや、主義主張、ときには悩みや葛藤をも、語り合い、分かち合いたい。もしかしたら、目指す場所は同じでも、方法の違いから袂を分かつ日は来るかもしれない(それ以前に、大人としての節度と礼儀を持って接しなければならないということは、言うまでもないね?)。それでも、ともに歩み、戦う同志がいるという事実は、なんと心強いことだろう。
 さて、その彼女だが、めがねが似合って、声のかわいらしい、どこにでもいそうな女性であった。よくしゃべり、よく笑う。色黒、とやや自虐的に言っていたけれど、むしろ健康的で、まぶしく思えた。
 彼女が、内なる欲求に従い、おむつを穿き、おしっこを我慢し、そして濡らす。目の前の彼女とその行為とが、あたかも、夏の終わりの少女のような日に焼けた素肌と、ま白いおむつとの対比、しっかりと結びつくような、まったく結びつかないような、奇妙な感覚に陥ったのをはっきりと覚えている。おむつの、おしっこ我慢の、おもらしの、どこに、どのように、どんな魅力を感じるのか。どうやって、どんなときに、どんなふうに楽しむのか、聞きたいことは山ほどあったけれど、結局それを言葉にすることはできなかった。
 もしも、もう一度どこかで会うことができたら、そのときは話をしてくれるかい? 同好の士として語り合えるその日を、きっといつまでも、わたしは楽しみに待っているだろう。



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