風のはなし。
彼女とは一度も、出会うことはなかった。いや、出会うことができなかった。彼女はわたしの空想の中にしかいない。いや、きっとどこかには「いる」のだろうけれど、彼女を知ることも、会うことも、わたしにはできはしないだろう。なぜならば、彼女はわたしの空想なのだから。
彼女は、おしっこがとても近い。それは体質的な理由が大きいのだろう。だが彼女はそれに加えて、「トイレに行きたい」と言い出せない。トイレに行きたいと告げることは、彼女にとって大変な勇気を、ともすれば苦痛さえ伴う。告げなければ、もっと恥ずかしい出来事が待っていることは彼女自身よく分かっているはずだが、どうしても言えないひと言があり、言えなかったひと言はやがてかたちを変え、彼女の下着にあふれる。
おしっこが近い。それは常に彼女の心のどこかに引っかかり、彼女の重荷になっている。誰かに打ち明けることができたなら、多少なりその重荷が背負いやすくなるかもしれない。だが彼女は、他人と話すことに、強い抵抗を感じてしまう。押しつぶされそうな重荷と息苦しさを抱えているであろう彼女の心の内を想像するときの、締めつけられるほどの切なさ。彼女の力になりたい。空想と向き合ううち、わたしの心の中にはっきりと芽生えた、今までに感じたことのない思い。
体質的にトイレが近く、さらにそれを人に言うことが難しいとしたら。いったい彼女はどんな毎日を過ごすのだろう? きっと、日常のいたるところに困りごとが、すなわち、おしっこ我慢を強いられることが、そして、おもらしの危険が、潜んでいるだろう。
わたしの空想の中で、彼女は何度も下着を濡らしている。通学の途中、学校内、友だちと出かけるとき、家で過ごすとき。何があったのだろう、そのときどうしたのだろう、結末は? つきることのない興味、ときめき。
彼女の日常のすべてを知りたい。それはとても抗いがたいが、暗い欲求だ。許されることならば、彼女の日常をほんのわずかでいい、覗かせてくれ。だがそれが、どれほど彼女を傷つける行為か、分かっているだろう?
彼女を悩ませているのは、起きているときのトイレだけではない。就寝中もまた、同様である。数日に一度は、彼女は濡れたシーツの上で目を覚ます。そんなとき彼女は、「水」に関する夢を見ている。夢の中で水と戯れ、時に洪水から逃げ、そしてトイレで用を足す。そんな夢につられるように、彼女の体はベッドのなかで排泄を行い、またやってしまった、目覚めた彼女はそれが夢であったと、深いため息とともに気づく。
トイレが近いのにトイレに行きたいと言えず、きっと、トイレそのものにある抵抗を感じながらおもらしを繰り返す彼女。夢の中でほんのわずか気を許し、目が覚めれば濡れたシーツの上で唇を噛む彼女。その愛おしいすべてを知ることができたなら。空想の彼女に何度も話しかける。彼女の返事を空想する。もしも彼女が本当にそこにいたのなら、きっとわたしのことを嫌いになるだろう。声をかけたい、と嫌われたくない、の間でわたしはもがき、沈んでいく。彼女が楽しげに会話をする誰かを空想しながら。
なぜ、自分は、おもらし、おねしょをしてしまうのか。なぜ自分は、他の人と同じようにできないのか。自分は他の人より劣っているのか。自分は「だめな人」と他の人に思われているのか。心に、きっと恥ずかしい出来事よりももっと深く、重く、暗く影を落とす「劣等感」。そして、他の人と同じようにできないのは、他の人より劣っているのは、だめな人間なのは「みな自分が悪いから」、という自責。
わたしのなかのあなたよ、どうか、そんなに自分を責めないでおくれ。失敗したらやり直せばいい。他の人と違って当たり前、同じ人なんて誰ひとりとしていない。声をかけることが怖いんだろう? 怒られるかもしれない、嫌な顔をされるかもしれない、傷つけられるかもしれない。でも、そんな人たちばかりじゃない。優しい人だってたくさんいる。勇気を出して、声をかけてごらん? 一歩、踏み出してごらん?
きっとどこまで行っても、彼女に会うことはできないだろう。わたしの声は届かないだろう。会話のかわりに、風の音だけがいつまでの響いている。けれど、彼女を思うことで、わたしのなかに新しい、希望の灯がともったことは間違いない。その光は、きっとこれからの行く先を照らしてくれる。決して会うことはできない、その笑顔を見ることはできない。でも、大好きだよ。ありがとう。
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